Couvent des Carmes d'Avon
聖堂。 ここで定時の祈りやミサに出席した。 しかし、何にも記憶に残っていない。 というのはこのアヴォン滞在中、 歯痛に苦しめられていたからだ。 アスピリン飲みまくり。(^^;
それでも、こうして写真を見てみると いくらかの記憶は蘇ってくる。 どことなく日本風? おそらくフランスの人には かなりエキゾティックに感じられるのではないだろうか。 |
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聖堂の入り口の脇に掲げられていた 「カルメル山の聖母」の聖画。 ちょっとイコン風なのがいい。
聖母が右手に持っているのが スカプラリオというもの。 もともとは修道者が身につける服の 前後にエプロンのように垂れる肩衣だった (修道者は今でもそれを身に着けている)。 修道者の格好はもともと、中世の野良着で スカプラリオに種を入れたりして ちょうどエプロンのようにして使っていたのだ。 それが時代とともに簡略化、このような形になった。 「聖母の旗」とも呼ばれ、 聖母の保護のしるしとされている。 |
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修道院にあったもう一つの聖堂。 オラトワール・ペール・ジャック(ジャック神父礼拝堂) という名前がつけられていた。 中はアイヴォリーホワイトの壁、 そして同色の絨毯が敷き詰められている。 自然木を使った十字架、アルカイックな聖母像、 サボテン、昔の長持(?)を使った祭壇と、 これまた自然をそのまま生かしたような聖櫃。 一見して、砂漠の雰囲気を再現しようとした意図がわかる。 フランス人の砂漠に対する憧れのようなものを ここでも感じることができた。
もともとカルメル会という修道会は パレスティナの砂漠の山を起源としている。 宗教改革の嵐が吹き荒れる時代に アビラの聖テレサによってスペインで改革されたが、 カスティーリャという土地柄、アラブの影響も強く受けたらしい。 以来、カルメル会では地べたにそのまま座るという祈りの姿勢が 伝統的に受け継がれている。 音楽もレクトトノといって、きまった単調な節回しで歌っていた。 全体として簡素さが目指されている。 簡素さが神との親しさを生み出す 孤独と沈黙をつくる、というわけだ。
その日は、禅のメディテーションがここで行われていた。 何かと東洋的なものにも親和性を持ちやすい修道会の 性格というのがあるのだろう。
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聖堂の裏手に回ってみると、緑ゆたかで 広大な庭が広がっていた。 この庭は石壁に隔てられているというものの、 そのままフォンテーヌブロウの森へとつながっている。 直線距離で行けば、フォンテーヌブロウ宮殿も遠くない。 |
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庭の周囲を護衛のように取り囲む木はどれも大木だ。 中でもやはりシダレヤナギの木が涼しげな風情を作りだしていた。 シダレヤナギというのは、日本人の感覚だと、 王維の漢詩だとか、小野道風と蛙の話を連想するのだろうが、 ヨーロッパの人にとってはどんなイメージがあるのだろう。 学名は Salix babylonica (サリックス・バビロニカ)。 Salix の sal は「近い」という意味。 lis には「水」という意味があるそうだ。 もちろん babylonica には「バビロニアの」という意味がある。 ところが実際には中東原産ではなく、中国原産の落葉樹なので、 バビロニアとは何のかかわりもないはずなのだ。 ほんとうはどういうところからついた名前なのかわからないが、 おそらく、多くのヨーロッパ人はこの木に、旧約聖書の 「バビロンの河のほとりで 私は泣いた」 という言葉を重ね合わせるのだろう。 故郷を遠く離れてバビロンに補囚された民が 岸辺で嘆く姿に似ていなくもない。
聖書的メタファーではバビロンとは 乱れた現実社会を意味する。 神の国を思って泣くのは何も旧約の民だけではない。
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庭のほぼ中央の段差のある場所から 湧き出す清らかな泉。 おそらくはここの断層から滲み出してくる 地下水なのだろう。 日本的に言えば「谷戸」であるわけだ。
修道院というのは 多くの場合、水の清らかで豊富な場所に作られたという。 有名なフォントネー修道院の例もそうで、 フォントネーとはそのまま「泉」である。 フォンテーヌブロウのフォンテーヌも「泉」だ。 豊富な地下水を有効利用するだけの意味ではないのだろう。 おそらくはキリスト教以前からの自然に対する畏怖や 神聖を感応する感覚が受け継がれたためだと思う。 |
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水の清らかさ、土地の豊饒さに裏付けられた実り。 もっともこの葡萄を収穫して食べたり飲んだりするとは思えない。 おそらくは観賞用のものだろう。 カルメル、とはそもそもヘブライ語で「葡萄園」を意味するという。 |
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