さよなら子供たち

Au revoir, les enfants.

 

 

 

映画『さよなら子供たち』のパンフレット。

ルイ・マル監督作品。1987年ヴェネツィア映画祭金獅子賞(グランプリ)。

 

 

 フランスのリジューという町の、カルメル会修道女に「リュシアン神父様のこと、ご存知?」と尋ねられて、もちろん答えは「いいえ」だったのだけど、「とても素晴らしいな方ですよ」と云われ、その名が記憶に残っていました。誰だろうと気にはなったものの、敢えて調べようとしないままにふと昔ロードショーで観た映画をビデオで見直してみて、ひょっとしたら……と思い当たりました。

 その映画というのはルイ・マル監督の遺作になった『さよなら子供たち』という作品で、ナチス・ドイツ占領下のフランスで少年期を過ごしたルイ・マル監督自身の追憶が映像化されたものです。ブルジョワ家庭に生まれたマル監督は少年時代戦火を避けるためもあってパリの家を離れ、パリの東南、フォンテーヌブローに隣接したアヴォンという町にあるカルメル会修道士の経営する寄宿学校「幼きイエスの聖テレーズ校」(映画では「十字架の聖ヨハネ校」となっています)で過ごしたのですが、その時の忘れられないあるエピソードが描かれています。もっと正確に言うならエピソードと呼ぶには重すぎる思い出でしょう。1944年のその体験は監督自ら40年も映像化できずにいたことであり、ようやく映像化したときには「私のキャリアの中でもっとも重要な作品」とコメントしています。

 

PERE JACQUES DE JESUS (Lucien Bunel) O.C.D. 

1900-1945

 

 ここからは映画の話ですが、映画を観る者の眼となってくれる、ブルジョワ家庭のお坊ちゃんであるジュリアン・カンタンはまだ夜尿症の治らない幼さも残す好奇心旺盛な少年です……もちろんこれがルイ・マル監督自身が投影されている人物なのですが、ある日彼のいる寄宿学校に、高潔で厳格な人柄のジャン神父につれられて何人かの転入生が入ってきます。そのうちのひとりジャン・ボネはひときわ大人びていて、成績も優秀。ボネ少年を強く意識したカンタン少年は彼に接近し、親しく話をするようになります。森の中での宝さがし、空襲警報が鳴る中で二人で弾くチャールストン、消灯時間を過ぎた後、舎監に隠れてこっそり読む『アラビアン・ナイト』。共有する思い出が増えていく中でボネ少年についての不可解さもまた生まれます。なぜミサで聖体拝領しないのか……などなど。

 ある日、生徒たちもバカにしていた料理番のジョセフの密告により、ドイツ兵が学校にやってきます。「この中にユダヤ人がいる。誰だ」。学校の庭に全員が整列させられる緊張の中、三人の少年が前に出されます。そのうちのひとりはボネ少年でした。彼はジャン神父とともにドイツ兵に連行されていきます。去り際、ジャン神父が生徒たちに向かっていいます。「さよなら、子供たち。また会おう」。

 オールヴォワール、レザンファン。そのままこの映画のタイトルになっている言葉です。ごく簡単なフランス語なので、わざわざ言うこともないのですが、「アデュー」とちがって、もう一度会うことを前提にした別れの挨拶です(もっとも、わざわざそれを意識して使っているわけではないでしょうが)。それでもこの挨拶を限りにもはや生きては会えないことを知っている子供たちと神父の、この挨拶にこめられた意味は深いものがあります。

 ルイ・マル監督自身の言葉で映画は締めくくられます。「40年以上が過ぎた。しかし、私は死ぬまでこの1月の朝を忘れないだろう」。映画の中のジャン神父とは実際にはイエスのジャック神父というマル監督の学校の校長だった人で、三人のユダヤ人少年たちも実際に彼の友達だったのです。ジャック神父(リュシアン・ビュネル)はレジスタン(ナチスに対する抵抗者)でもあったわけで、この映画のとおり三人の少年たちをかくまったために、彼等とともにホロコーストの犠牲者となります。この映画をきっかけにして列福運動も起こっているらしく、フランスでは(厳密に言うと、フランスのカトリック教会では)有名な人物となっているようです。僕がかの修道女に聞いたリュシアン神父とはこの人のことでした。

 マル監督によればずいぶんと厳しい人だったようです。しかし、こうも言っています。「いつもものすごくまじめで厳しくて、笑顔を見せたことがなかった。その神父がチャップリンの大ファンでした。そのコントラストがおかしくてよく覚えていました」。学校でチャップリンの映画が上映され、厳粛な顔つきの神父たちも腹をかかえて大笑いするそのエピソードは映画の中にも挿入されています。

 映画の中ではこのジャック(ジャン)神父のところに告解するためにやってくるナチスの兵士の姿も描かれています。聖人と言われるような人でもナチスのように大量虐殺に手を汚したような人々も簡単に悪人だ、善人だ、英雄だ、と言い据えることのできない難しさを感じます。映画の中で裏切り者となるジョゼフもその弱さは戦時下にあって、責められるべきものというよりは、痛々しいものに映ります。誰もが生きる意味と理由を持って生まれてきている、それは絵に描いた餅のような理想ではなく、この映画に表れているような見たままの現実なのではないか、という気がします。

 
ペール・ジャックの面影を追って



 

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